cognuts’s blog

一个日本人自己做正宗中国菜的博客。在餐厅一定要点炒饭和锅贴的人不要看。

蝦餃

えび蒸し餃子。これまで幾度となく作って来たメニューだが、今回レシピを見直した。

成形がしやすいようずっと水少な目で固めの皮を作っていたのだが、それだとどうも綺麗な仕上がりにならない。水多めでもしっかり練って”糊化”させれば、ねちゃねちゃになることもなく、成形も却ってやりやすくなることに気づいたので、今回そのように作ってみた。

蒸す前の状態。こうやって見ると襞の取り方がまだ汚いな。まあ、それは今後改善するとして。今回は水多めで弾力のある生地に仕上がったので、一個一個の餡が多めでも皮が破れなくなったのが何よりの収穫。また、今までは生地を中心から外側に向けて伸ばしていたのだが、今回本物の点心師のように押し当てたコテを”の”の字に回して伸ばせるようになったのも嬉しかった。では、蒸した後の出来上がりは?

ちゃんと皮が半透明に仕上がった。今回中の餡も作り方を変えてみた。蝦に塩を振ったあと良く揉みボールの底に叩きつける。こうすると適当に身が潰れると共に粘りが出て包む時成形がしやすくなるのだ。心なしかプリプリ感も増したような気がする。大きいサイズの蒸籠一杯に作ったのだが、”秒”で完食しました。

腹がくちくなったので読書。

一冊目はインドロ・モンタネッリの「イタリア史」。これは折に触れ読み返す本なのだが、やはり近代以降が面白い。それは、モンタネッリが元々ジャーナリストで近代史の方がジャーナリストとしてのセンスと経験が活かせるというのもあるし(存命の関係者にインタビューなんかしている)、また”遅れて来た近代国家”という点で同様の日本と共通点が多く色々考えさせられると言うのもあるが、何よりイタリアという国がファシズム発祥の地でその誕生の過程がつぶさに語られるというのが大きい。

私のようなズブの素人からするとファシズムがしばしば社会主義を標榜するのが奇妙に思えるが、この本を読み第一次大戦戦勝国でありながらその恩恵に預かる事の少なかったイタリア社会で多くの左翼青年が民族主義に転向していった(ムッソリーニもその一人)事実を知れば、それもすんなり納得できる。また、ジョルジョ・ソレルなるマルクス主義の鬼子みたいな思想家が、民衆を動かすには理性よりは民族的ロマンチシズムに訴えろ、というまるでファシズムを準備するかのような説を説いていたというのもこのモンタネッリの本を読んで初めて知った。このソレルに深く傾倒していたのが、何を隠そう、あのムッソリーニなのだ。さらには、元々イタリアではジョリッティという首相の、極左と極右の合同政権樹立みたいな離れ業が議会運営の手段として常態化しており、それがファシスト政権誕生を可能にした土壌かもしれないのだが、その辺りの事情も詳しく書かれている。とにかくファシズム全体主義を理解しようとするなら、第一次大戦後のイタリア社会の状況を理解する必要があるわけで、そのためにこれはうってつけの本。

二冊目はシュテファン・ツバイクの「ジョゼフ・フーシェ」。これは正月にバルザックの「暗黒事件」を読んだついでに読み始めたのだが、こっちも勝るとも劣らない面白さ。フーシェという保身の達人が大革命から第一帝政にかけての歴史の激動期を生き抜いていく過程はまるで小説のようにスリリング。ただ、シュテファン・ツバイクと言う人、私は今回初めて読んだのだが、この人の文章は、ちょっと大仰で時代がかっていますな。(ただ晦渋ではない。むしろ読みやすい。)講釈師が熱弁を振るっているようで、明治の文筆家の徳富蘇峰とか山路愛山とかを思い出してしまった。

三冊目は以前の続き。ヘロドトスの「歴史」。今第四巻の中ほど、ダレイオスのスキタイ遠征の辺りを読んでいるのだが、やっぱり面白い。話の運びが上手いのだ。敵地で敵に包囲されたダレイオスが味方を騙して脱出するくだりなど流れるような叙述である。最初「歴史」を読み始めた時は、脱線が多くて辟易したが、読み慣れてくるとそれらが本筋に綺麗に収束されているように思えて来た。たまたま先日岩波文庫版に目を通すと、一見無造作のようでありながら、その実ヘロドトスは入念な計画の上で筆を進めているという解説があって、我が意を得たりと言う気がした。

海鮮乾炒河

 ”河粉”という米の麺の焼きそば。これも香港の名物。ただ、私は食べたことがない。海外であまり麺料理を食べないのだ。だから、これは「確か”益新”でこういうメニューがあったよな」という記憶を頼りに適当に作った。

あんまり上手く行かなかった。普段あまり使ったことがなかったのだが、この米の麺という奴は炒めている内にお互いがくっつく。ほぐすことに手間取っている間に、海鮮に火が通りすぎてしまった。また、もう一品の自家製卵麺の上に乗っける叉焼の焼き上がりのタイミングを読み間違えて、二品同時に仕上げることが出来なかった。暫く作っていないと、こんな風に段取りが悪くなるので、嫌になる。

BGMはこれ。

日本にバーブラのファンってどれだけいるのかね。でも、私にとって「追憶」は恋愛映画の中のマイフェイバリット。このベスト盤だと、ビージーズのバリー・ギブが提供してデュエットまでしている「ギルティ」が最高。

 

 

港式点心 焼味

変わったものを作るといいながら、結局いつもと同じようなものを作ってしまった。来月から忙しくなり料理をする暇がなくなるので、その前に基本的なものを作っておきたかったというのがその理由。

叉焼包。生地が割れているのは失敗ではなく、わざとそうしていることをわかっていただけているだろうか。2日前から種を仕込んで育てた酵母菌と膨張剤の作用で生地を弾けさせるのである。出来がいいと三つに裂ける。写真は今回一番の"優等生"。

 

点心をつまみながら読書。

年明けから読み始めたバルザックの「暗黒事件」を読了。この小説を読んでシュテファン・ツバイクが興味を持ちフーシェの伝記を書いたことは有名な話。それが頭にあったので、渋い政治小説を想像していたのだが、実際は大通俗(いい意味で)ロマンだった。主人公が革命で殺された主人の財産を守るために敢えて悪役を演じているなど歌舞伎の"戻り"みたいだ。敵味方相乱れる中亡命先から戻ってきた主人の遺児を匿う場面のサスペンスの盛り上げかた、ペリー・メイスンも顔負けの法廷場面、そこから一転イエナ会戦前夜のナポレオンとの会見に雪崩れ込む展開など見事である。バルザックの奔放な筆致を堪能できる。惜しむらくは、主人公の主人夫婦が死ぬ革命の動乱の前史にあたる部分が概略に留まっていること。それで何だかクライマックスだけを抜き出したような印象を受ける。そこがきちんと描けていれば、もっと登場人物に感情移入できたのに。バルザックは大変着想が豊富な人なのだが、それゆえに筆が追い付かず梗概で終わっているものが少なくないのだ。(超がつく程の大傑作「幻滅」の続編「浮かれ女盛衰記」がそのいい例) もっともこの場合は、法廷場面に集中させるため、わざとそうしているのかもしれないが。

もう一つはヘロドトスの「歴史」。今ちょうど三巻目を読んでいるのだが、面白い。ペルシア王カンブセスが死に、簒奪者を倒しダレイオスが王位につくくだりは何かが取り憑いたようにヘロドトスの筆が思う存分に走っている。簒奪者を倒すべくダレイオスとその一味が王宮に攻め込む辺りなど一瞬ハリセンの音が聞こえて来るかと思うほど活劇調だ。だが、もっと面白いのは乱に際してのダレイオスの言動。反乱に誘われた時「やるんだったら今やれ、もたもたしていれば俺がお前たちを裏切るぞ」と逆に脅しにかかる果断さ。「人間、嘘をつくのも正直を言うのも欲得ずくである。得になるなら嘘を言ってもよいし、ならないのなら正直を言っても意味がない」と言ってのける現実認識の苛烈さ。大王の人となりを活写して余す所がない。また、反乱成った後の、君主制、寡頭制、民主制の体制の比較論も哲学的議論で興味深い。これだけでも実に内容が豊富で、古典と聞いて思い浮かべる平板さとおよそ無縁であることがわかるだろう。近年本を読んでこれ程興奮したことはなかった。だからこそ何にもましてまず古典を読むべきなのだ。

 

炒牛肉伊府麺

”伊府麺”とは要するに卵麺のこと。youtubeでこれを作っている人の動画がおいしそうだったので自分でも作ることに。

ただ、これは”拉(ラー)麺”ではないので、生地を最後に裁断する必要がある。前回固焼きそばを作った時も自家製麺だったのだが、あんまり綺麗に切れなかった。和蕎麦などでも上手な人は見事なまでに美しく均等に切るが、私にはそんな集中力もセンスも技術もない。そこで秘密兵器を用意した。

インペリアのパスタマシン。といっても私が買ったのではなく、私の妻の亡きお母さんの遺品。だからかれこれ五十年くらい前のものだろうか。彼女は当時としては大変ハイカラ好みの人で、外国からこういう調理器具を取り寄せパスタやらパンやらをよく作っていたのだとか。このパスタマシンもその一つ。今となってはそう珍しいものではないが、当時日本で誰もこんなものを使っていなかったろう。棚の奥で埃を被っていたのが前から気になっていたのだが、今回使わせてもらうことに。

マシンにかけて出て来た麺。(作っている途中の写真を載せればいいのだが、それどころではなかった。大抵一人で作っているのでその余裕はないのだ。自分で自分を撮れないだろう。)初めての割には案外案外うまく行った。まあ、私の手柄ではなくマシン自体が誰でも作れるように巧妙に出来ているのであろう。ただ、なにぶん何十年も使っていなかったから、ローラーの汚れが結構しつこい。手入れしてしたつもりだったが、生地に黒い汚れが付く。ちぎって取れる程度だったので助かったが。

出来上がり。冷蔵庫の中にある余り物と適当に炒めた。味はオイスターと豆豉醤。結構いける。これは煮汁と一緒に煮込んであるのでそれ程でもなかったが、翌日茹でて汁ソバにして食べたらシコシコだった。かん水を加えていないのにこれだけコシが出るものかと自分でも驚き。卵と小麦さえあればいつでも作れる。私は不器用なのでパスタマシンに頼ったが、なくても丁寧に切れば綺麗な麺になるだろう。「こんなのがお家で出来ちゃった。すごおい!」という自己満足に留まらない。おすすめ。

サイドメニューは焼き餃子。最も唾棄すべき食い物。ただ、それはこんなもんレストランで金払って食うなよ、ということ。家庭で自分で作るには何の問題もない。でも、皮から作るとなると結構難しい。水餃子とは違うなと思った。水餃子は皮が少々分厚くても美味しいのだが、こっちは皮が厚いと食いにくい。出来るだけ皮を薄くする必要があるのだが、それだと成形が難しくなる。一枚一枚伸ばすのではなく、いっそ生地全体を薄く広げた後型抜きした方がいいと思った。私は焼売の皮をその方法で作っている。また焼き加減にもコツが要る。強火は厳禁。冷凍の餃子のつもりで焼くと焦がしてしまう。中火ぐらいでじっくり焼かないと。だから、上の写真は失敗例だ。

 

「日本人の口に合わない中国料理」を作るといいながら、年明け以降日本人が普通に食べそうなものばかり作っている。そろそろ「これは日本のレストランではお目にかかれないよな」というものに挑戦しようと思う。

 

1/31追記

上で負け惜しみみたいなこと書いたが、悔しくて作り直した。見た目は少しはましになったが、味はまだ駄目。水餃子と同じ皮なのがよくない気がする。いずれまた作るつもり。

 

醸豆腐

これも”梅菜扣肉”や”鹽焗鶏”と同じく客家菜。豆腐に餡を詰めて焼くだけだから、誰でも手軽に作れるだろう。

こっちは”鹽焗鶏”。

こんな風に塩をかぶせてオーブンで焼いたのだが、ちょっと焼き過ぎた。180度で一時間弱が適当か。また前回書いた通り直接塩で覆ったのだが、そうだと肉汁が全部出てしまう感じ。丸鶏ならいざ知らず鶏腿ならやはり紙で包むべきだと思った。ちなみに塩の量はこれで約1キロ。値段で200円もしないので経済的か。

もう一品は”梅菜扣肉”と行きたかったのだが、ちょっと時間がなくてスペアリブのローストで我慢した。スペアリブはいつも塩と五香粉だけで焼いているのだが、今回は叉焼のたれに漬け込んで、仕上がりも叉焼同様たっぷり蜂蜜をかけてある。

 

”梅菜扣肉”にしても”鹽焗鶏”にしても、私にとっては銅羅湾のレストラン”泉章居”の料理。香港に行くたびに必ず訪ねて注文している。私がこのレストランに最初に行ったのは香港自体初めて行った時。セントラルから銅羅湾までトラムに乗って行ったのだが、二階席から見る街並みがまるで移り変わるパノラマのように面白く、料理の美味しかったのと共に懐かしく思い出される。

ただ、ここは高級店ではないので、ホテルの三ツ星レストランが目当てのセレブには見向きもされないだろう。香港の美食家チャイラン氏も結構評価が手厳しい。「味もそこそこ。子供の時連れて行ってもらっても大人になったら行かない店」なのだとか。確かに。お洒落な雰囲気ではないのでデートには向いていないわな。でも、もうちょっと年齢が行き、家族を持ち子供ができるようになったらまた行くようになるんじゃないか。値段の割には味もよく、家族連れが買い物帰りにちょっと食事をするにはぴったりの店なのだ。いい意味でのファミリー向け。

順徳料理の「鳳城酒家」もそうだが、香港にはこういう大衆路線だが味もしっかりした良心的な老舗店が結構あるので羨ましい。日本はこの手の中間層が行くちゃんとしたレストランが軒並みチェーン店にやられている印象。私自身も、子供の時或は学生時代によく行った店が廃業に追い込まれたり営業形態を変えたりしているので、大変残念でならない。安食堂でもなく、かと言ってやたらに値の張る高級店でもない。雰囲気においても値段においても家族が安心して食事のできる店。そういう場所が日本は意外に少ないのだ。

萝卜糕

今度はマーラーガオと一緒に、大根餅とお焼きを作ってみた。

前回より発酵時間を長くしたところ、思った通りさらに膨らんだ。この通り。

ただ、大根餅とお焼きは以前作った方が出来がよかったかな。

大根餅は色んな作り方があってどれが一番よいのか悩む。ただ、youtubeを見るとボールで溶いた粉に炒めた大根を投入している奴がいるが、やめた方がいい。その後蒸しても火が通り切らず、なんか粉の汁を生のまま食っているような気になる。やはり水で溶いたあと粉の方を鍋に投入し、生地自体にしっかり火を通すべき。あと分量だが、中くらいのパウンドケーキくらいの大きさなら、大根250グラムに対して粉100~150グラムといったところか。

马拉糕

みんな大好き”マーラーガオ”。

日本人がこれを作ると、大抵小さな紙の型に入れてカップケーキみたいにしやがる。

もっとドカッと作らんかい、ドカッと!

みみっちく作ると、人間までみみっちくなるぞ。

そういう訳でドカッと作ってみた。

うまく行ったつもりだったが、こうやって見ると膨らみが足りないな。

本場のマーラーガオは、まるで本阿弥光悦の有名な蒔絵硯箱のように中央がうず高く盛り上がるのだ。

どうも発酵が不十分だったよう。冬場で気温が低いせいかスポンジ生地がなかなか膨らまないのだ。発酵さえ上手く行けばもっと膨らむと思うのだが。でも、食べれば十分フワフワ。それが証拠に、

手で押さえても、

すぐまた元通りに。

 

しかし、”マーラーガオ”と言えば私はやはり”蓮香楼”を思い出す。

御存じの通りあそこは出来上がった点心をスチームワゴンで客席まで運んで来て、欲しい点心が来ると客はレシート代わりのカードを持って行ってスタンプを押してもらうシステム。”マ~ラ~ガオ~”と独特のイントネーションで売り子のおばちゃんの声がかかると、明らかに客たちが色めき立ちワゴンに殺到していたのが深く印象に残る。他にも人気メニューは数多くあるのに、”マーラーガオ”の時の反応は特別だったように思う。それも当然か。何しろ”蓮香楼”の”マーラーガオ”は他店のそれを遙かに超える程フワフワなのだ。一体どうすればあんなにフワフワになるのだろう。”陸羽”などと比べてチープに思われそうだが、やはり職人の腕は超一流なのか。ただ、ここで私が言いたいのはそのことではない。伝えたいのは、その時の店全体の雰囲気。”蝦餃””叉焼包”と言った人気役者がそろい、それらが登場するときは必ず専用の口上がかかる。そして、それに興奮して我を忘れる客たち。まるで芝居の出来がよかった時の劇場の観客席を見るかのよう。そうかと思えば、卓上では"洗杯(サイプイ)"が行われている。客たちがめいめいの流儀の慣れた手つきで朝の儀式を執り行っているのだ。誰か意図してそうなったわけではないのに、食事という行為が巧まずしてショーアップされ、しかもそれが日常的に繰り返される。何とまあ香港のレストランとは面白いところだろう!私が香港を訪問する目的は、そこで暮らす人々の人情(最高!)に触れることと、そうしたレストランの雰囲気のただ中に身を置くことなのである。

 

二面黄炒麺

日本語で何と言うのだろう。”両面固焼きそば”?

スーパーで売っている中華麺は料理には向かないので、手打ち麺を使用。茹でた後両面を焼き、最後に鶏胸肉・椎茸・筍の餡をかけた。胸肉を使ったのは健康を考えてのこと。濃厚な味がお好みなら、腿肉や豚肉を使うとよいだろう。(海鮮を使うと普通の揚げソバっぽくなるので今回は入れてない)

あと、予想外だったのは麺に焼き目が付くまで結構時間がかかること。時間の都合があったので適当なところで切り上げたが、次回はもっとこんがり焼いてみたい。

サイドメニューは水餃子。もう一つ、豚バラ肉の煮物などがあればよいのだが、そうすると”健康”と言ったのと矛盾するか。我慢、我慢。

焼き目はもう一つだが、十分パリパリ。美味しかった。

実を言うと、この料理は偉大なる先達陳健民氏のご著書で紹介されていたもの。

私は基本的に自分が香港や大陸で食べたものをyoutubeや向こうで買ったレシピ本を見て再現しているのだが、それ以外に陳氏のような日本でご活躍されていた中国人の料理本もちょくちょく参考にさせてもらっている。それは、たとえ日本人向けにアレンジされていても、しっかり伝統の調理法が守られているから。特に陳氏のように我々より二世代も三世代も前にお生まれになった方がお作りになる料理は、”改革開放”どころか、”文革””大躍進”以前の古き良き時代を彷彿とさせる何かがある。今風の垢ぬけた料理ではないが、老舗の菜館や良識ある堅実な家庭で供されるような古式ゆかしい品々。”創作(笑止な!)中華”などとぬかし、伝統の調理法や素材を無視する日本のチンピラどものインチキ料理とはまさに対極の世界がそこにある。

先日も、陳氏のご著書の中に、まるで「隋園食単」を思わせるような高雅で何とも味わい深そうな料理を発見した。いずれ、作って当ブログで紹介したい。

水餃子は前回よりもモチモチに仕上がった。薄力粉と強力粉の比率を6:4にして、ぬるま湯で練ってとにかく捏ねた。変にあれこれ考えるより、中国の方の「徹底的に捏ねろ」という教えに従ったのがよかったようだ。

佛跳墙

我が家ではもはや正月恒例になった観のあるこの料理。

最近中華圏を旅行しておらず、乾物類のストックが枯渇してろくなものが入っていないのだが、フカヒレとナマコだけは入れているので、「佛跳墙」と名乗ることをギリギリ許されるのではないかと思っている。

「美味しい食材を全部入れて煮込んだらきっとメチャクチャ美味くなる」という食いしん坊の思い付きをそのまま具現化したようなこの料理。単純な発想だけに同じことを考える奴がどこの国にもいるらしく、辻静雄先生のご著書によればフランスの「ドダン・ブーファンの生涯と情熱」という小説に「佛跳墙」と同じく”全部入り”スープの話があり、それをアレクサンドル・デュメーヌという料理人が本当に作ってしまったのだとか。これぞ、知る人ぞ知る"ドダン・ブーファンのポトフ"!  これなど、さしずめ西洋版「佛跳墙」と言ってよいだろう。ただ、フランスでは小説版が”全部入り”だったのに対し、実際にデュメーヌが作ったものは牛やら鶏やらのスープを別々に出すフルコースだったそうな。恐らくフランス人は色んな物が一つの器にごちゃごちゃ入っているよりも、純粋に素材単体の味を楽しみたい人々なのだろう。あと今書いたことと結局同じことかもしれないが、東西で大きく異なる点が一つある。それは、「佛跳墙」が鮑やら帆立やら魚介のエキスが濃厚であるのに対し、フランスの方が使う食材があくまでも牛、豚などの家畜類である点。なぜそこに魚が使われていないのか? 遊牧民であった満州族には海のものと陸のものを同時に食べてはいけない禁忌があったというが、フランスに同じようなタブーがあるとは聞いたことがない。恐らく彼らにとって美食の主役はあくまでも家畜の肉でありーもちろんフランス料理のメニューにも美味しい魚料理があるにはあるがー、そこに魚の味をプラスするという発想がそもそもなかったというのが大方の理由だろう。日本で”魚介ダブルスープ”を売りにするラーメンがあるが、魚介と肉の旨味があわさった味を美味しいと感じるのは、もしかするとアジアの中でも国土に海岸線を有する民族だけの特色なのかもしれない。

あと、前菜として孔雀を象った大皿料理を作った(こういう生き物を象った前菜を中国では「像生」と言うのだそう。)去年もこの手の料理を作ったが、

 

cognuts.hatenablog.com

並んでいる一つ一つは「蛋糕」と呼ばれる単なる卵の蒸し物で決して食べて美味しいものではなかったので、今回は実際に食べられるようにと色々内容を変えてある。具体的には、画面上方エビの上に並んでいるのは”如意捲”という薄焼き卵に鶏のすり身を塗り蒸したもの。孔雀の首の廻りは、ウズラのピータンの肉巻き、叉焼、あとテリーヌ・ド・カンパーニュをアレンジしたもの等等(羽の部分は色鮮やかにする必要があるので相変わらず「蛋糕」)ただ、皿とパーツの大きさのバランスが悪く、最終的に適当な並べ方になってしまった(肝心の首の造形など超テキトー。)おかげであんまり孔雀に見えず公開するのを憚られたが、来年同じようなものを作る時の参考になればと、敢えて掲載することにした。

新年快乐!

このblogも三年目を迎えた。

無能な政府の愚劣な経済政策が物価高を招き、おかげで作りたいものが思うように作れず正直不満なのだが、可能な限り継続していきたいと思う。

”可愛い”ではなく”美しい”料理を、”お洒落”ではなく”豪気”な料理を作る。